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「 自尊心・価値観・ディスタンクシオン 」​

2023  6月

西 山 英 夫

その人の選択や判断には、他から「どう思われるか」や「どう見られるか」が多分に関わっているだろう。

人々の承認欲求ということが語られて久しいけれど、きっとそれは、我々が生きている限り逃れられない業かもしれないし、そのことを向田邦子は、自分の気質を自戒的に「屈折した自己顕示欲」と言った。

 

ものの形姿に関わる建築家も、自己顕示欲の強者(つわもの)かもしれない。

複雑で多様な要望や制約と格闘しながらも、自らが良しとする世界と折り合いをつけながら完成の未来を必死に思い描いている。有名か無名に関わらず、何かを創り出す人々は、きっと同じような人生の格闘しているのだろうし、良くも悪くもそのことが唯一各々の自尊心かもしれない。

 

八代市に厚生会館という戦後の文化ホールがある。

派手さを抑えた、どこか気品のあるその佇まいには、これ見よがしの作為がなく、周りの城跡や環境と不思議に馴染んでいて、心地良い。

設計者の芦原義信さんの環境に対する矜持や良い意味の自尊心を想い起こさせた。

このような時代の年輪を重ねた場所を活かしながら、その価値を未来に橋渡しさせていくことが大切だろう、繕いながらも大切にしてほしい。

 

かつてP ・ブルデューが唱えた理論「ディスタンクシオン」の中に、二つの資本というものがあった。一般に資本というと貨幣価値を伴う「経済資本」を指すが、ブルデューはその他に「文化資本」という概念を対比させていた。

氏のいう文化資本とは、人々が身につけて来た文化的な価値(観)は、対象の価値を受容する能力の有無を指していて、その人の生きる世界に資本としての機能を生み、引いては経済資本的な価値を与える。つまりその人が、物事の何に価値を置くかは、その人が、その社会の中でどのように生きるか生きられるかを規定する物差しだと。

 

承認欲求と同時に、「格差」ということも盛んに言われている。

そこには、経済的な格差以上にブルデューのいう「文化資本」的な価値観の格差が今の時代により顕在化しているようにも見える。

日々の暮らしにとって、簡易でより便利なことがスマート、速さや安楽さの追競争、メディアやSNSで見え過ぎることや分かり過ぎることの不安・・・。

ハンドルの遊びや曖昧なグレーゾーンのような余白がどんどん無くなり、人々を益々裸にして、今の時代を無機的で生きづらくさせているようだ。

 

詩人谷川俊太郎が、「住宅は、住む人の精神のカタチ」と言っていた。住む人の精神は容易に見えないけれど、きっとそうだろうと納得がいくし、それはその人の自尊心に基づく価値観、明確な生の存在証明とも言えるだろう。

同じように、みんなが共に暮らす「街の姿は、その街の精神のカタチ」かもしれないし、明確な街の存在証明となるだろう。

 

八代の街が、市民の良き自尊心と価値観に支えられて、魅力のある未来へ橋渡しされることを今は願って止まない。

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