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「駅舎は単なる機械や道具だろうか」
2014 熊本日日新聞
西 山 英 夫
先般熊日紙上で熊本駅前の今後を鑑みる、他県の現況をレポートする特集を読んだ。
長年職場近くで変貌を見て来た者として、18年度の駅舎の完成を心待ちにしている。
さて翻って、衰退の一歩をたどる各市町の駅前であるが、何処もなかなか明るい未来が見えず、さびしさと不安が募るばかりだ。かつてはその町の顔であった駅(舎)も、今は毎日のルーティンな乗降のみの機械になったような気がしてならない。
過日、本紙こちら編集局に、私と同じ地域に暮らす方の松橋駅に関するコメントが出ていた。今年度から新築工事に入る駅舎について、その閉鎖的で無機的な表情を残念がっておられたし、正直私も全く同感の思いを抱いた。建築の世界に携わる者として、日頃通りすがりの街並みや建物に自然と注意を払ってしまう訳だが、3年程前、自邸に初めて招待したわが師と車で駅前を通り過ぎた折、窓越しに彼は「松橋駅、とても趣のあるいい駅舎だね」と語り出した。
日本建築学会の副会長も務めた計画学者からのほめ言葉に、何だか少し誇らしかった。
かつて駅を舞台にした数多くの映画や小説に心惹かれた。長い年月が創り上げる人々の記憶や親しみ、我々の精神生活はそんな日常の様々な風景に支えられている。数年前に宇土駅が同じく新しい姿に変った、がっかりした。以前の宇土駅を知る方もたぶん同様だと思う。事業主体や費用・スケジュール等の諸問題はあろうし、種々の委員会や討議を経ての着工だろう。
しかしこの新しい松橋駅の姿が各位の良識と判断であるとすれば、手続きとしての民意集約や合意もむなしさがつのる、誠に残念でならない。
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