「2016年 夏」

2016 8月

西 山 英 夫

 傾いた午後の日差しが、窓際の百日紅を鮮やかに染め上げていた。
きっと昭和20年の夏も、今年と同じように暑くて百日紅も美しく咲いていたんだろう。
戦争を知らない私も、熊本地震という災難を経験した今年の夏は、終戦の日の虚脱感が
何か身近に感じられる。今は、足早に過ぎて行ったこの春から夏への想いを、記憶の中
にしっかりと留めて置きたい。
 4ヵ月前、無情な自然がいとも自在に、人々の平凡な日常を奪い去っていった。普段、
雨風の厳しさや寒暖の移り変わりを受容して来たつもりでさえ、今だ知らない大地の顔
を初めて見せつけられた。
 自然学を提唱した今西錦司は、しぜんよりもじねんという捉え方で、その成り立ちや
進化を独自に解釈した。その時、その場所に在るべくして在るもの、起るもの。理論化
や細分化された近代科学だけでは捉えられないものやことが存在するし、事象の偶然や
運も自然の営みの中に含めて、ダーウィニズムを疑った。文明の存在しない土地や時代
であったなら、われわれが「災害」と呼ぶ苦難も起こらず、なすがままの荒れ野にもま
た以前と同じように、花は美しく咲いて来ることだろう。
 テクノロジーを加速度的に進化させて来た今日でも、分らないものや見えないものが
どうしても存在するし、人工知能に取って代わるかもしれない未来も、今西に言わせれ
ばきっと、じねんという営みは変らないということだろうか。
もし父親が出征していた終戦の夏が冬に替わっていたなら、私という存在も無かっただ
ろう。いまを生きていることを大切にしたい、偶然の必然という世界で・・・。
 うたた寝をしたまま薄暮を過ぎていた。帰途について加勢川を渡る頃、遠く嘉島か益
城あたりに花火が上った。
今年初めて見る打ち上げ花火、音の無い車窓越しの残照 。
若い頃に聴いた、グレープの精霊流しが、花火の音に代って静かに脳裏を奏でていった。