「含 羞 の 人 々」

2015 熊本日日新聞

西 山 英 夫

 遠い日の記憶に残るそのドラマは、確か「記念樹」といった。47、8年も前、

小学1年生の頃の思い出だ。以来何本その脚本家のドラマを観て来たのだろうか、
彼のドラマでこの歳まで育てられて来たような気がする。
 作家 山田太一、過日氏と画家木下晋の対談を聴いた。加えて画廊では、永年の
山田ファンとしての挨拶と数分の言葉を交わした。たぶん最初で最後のことだろうが
嬉しかった。
対談は、緻密な人物描写の画家と繊細な心情表現の作家の波長が心地良かったが、
改めて感じたのは、各々の表現の違いを超えた彼らの人間に対する深い眼差しや
洞察だったかもしれない。
文庫「岸辺のアルバム」末尾の解説に、「山田太一はまさに"含羞(がんしゅう)の人"に
ふさわしい。人の気質は、何を恥ずかしく感じ、何をはしたなく思うかに尽きる。
彼の慎みと優しさ…」とある。昨今のわれわれが忘れかけていたものかもしれない。
 数字やデータ優先の今の世の中で人生の奥底をどう見つめるのか、先頃の傾斜マンション
問題に係わる担当者達にも含羞の一端があったならば、次第は変っていただろう。
 生業の向う側にしっかりと人間を見つめる謙虚さを思い、自戒を込めた充足感に
満たされながら、対談の帰途「ながらえば」等老いを見つめた後年の山田ドラマが
次第に自身に近づいてくる歳頃を感じた。